子供の頃、なんとなくではあるが、テレビでキックボクシングをやっているのを見た記憶がある。何が起きているのかはわからなかっただろうが、もしかしたらそのとき見ていたのは「膝蹴りジャックナイフ 藤本勲」だったかもしれない。引越しして間もない新生藤本ジムにお邪魔して会長にお話を伺った際、そんな話をしながらこちらの年齢を告げると、会長は「そんな若い人とはしゃべりたくないよ(笑)」といいながら、笑顔で答えてくださった。
■日本ヘビー級初代王者
生涯戦績 51戦40勝11敗。引き分けなし。40勝のうち、なんと32試合がKOである。「KO率が高いでしょ。膝蹴りが多いから」という。“膝蹴りジャックナイフ”といわれたのは、その膝蹴りの切れ味がジャックナイフに例えられたからである。そんな藤本勲も、デビュー戦(1966年6月18日)は惜しくも1RKO負け(2分59秒)を喫した。
−キックを始めたきっかけはなんだったんですか
会長:沢村(忠)さんの友達がうちの道場にいましたので。それで、こういう試合があるからこないかって。
−最初は見に行ったんですか?
会長:いえ、試合に出たんですよ。
−いきなりですか!?
会長:4日間練習してからね。
−え!? 4日間だけ練習していきなり試合ですか!?
会長:空手(剛柔流)やってましたから。空手のほうが強いと思ってたんです。そしたら1RKO負け(苦笑)
「剛柔流空手の構えが“猫足”だったから、意外とスムーズにキックに行けたと思うよ」と実演を交えて教えてくださったが、今プロデビューを目指してトレーニングしている人にしてみたら、実に衝撃的なエピソードであろう。しかしこの日からキックボクサー人生が始まり、東洋ミドル級(初の日本ヘビー級王者)が誕生することになるのである。
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キックボクシング界をずっと現場で見続けている藤本会長 | 引き出しからでてきた郷里山口県のアルバムには若かり頃の写真が。なかなかの男前である。 |
■もっとも印象に残っているのはやっぱり沢村選手
これまでの中でもっとも印象に残る選手は? との問いに対し、繰り返すように「やっぱり先輩の沢村選手だね」と答えた会長。沢村選手とは、東洋ライト級王者・沢村忠氏だ。「真空飛び膝蹴り」を必殺技とした、日本キックボクシング史の、そして目黒ジムの創成期に欠かせないキックボクサーであり、「キックの鬼」として漫画(昭和44年)やアニメでも有名な人物である。キックボクシングをよく知らない年配者でも、「沢村忠といえば真空飛び膝蹴り」とだけは知っているほどだ。そんな沢村忠氏とともに同時期、目黒ジムに所属し、パートナーをも務めていた藤本会長は、まさにキックボクシングの創成期を目の当たりにし、キックボクシングの歴史とともに歩んできた人物といえる。
ちなみに、沢村忠氏をテーマに描かれた漫画「キックの鬼」(梶原 一騎著)の中に藤本会長が登場していることはご存知だろうか。自身の結婚式に沢村忠氏が出席しているという場面だ。興味のある方はぜひ確認してみていただきたい。自分自身が漫画に登場したことについて感想を伺ったところ、「沢村さんが主役だから我々は全然。別に関係ないですね。沢村さんはスーパースターでしたから」と案外あっさりした答えが返ってきた。とはいえ、その漫画はジムの事務所内に大切に保存されている。
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「キックの鬼」を手に、自身の登場シーンを探す。聞き手ともに見入ってしまい、話が中断することも。 | 「キックの鬼」は沢村忠選手がいかに有名であったかを物語る。 |
■大切なのは「基本」そして「防御」
藤本会長によると、目黒ジム時代から現在に至るまで50名以上のチャンピオンを輩出しているという。藤本会長が正式に会長に就任してからは3名(北沢勝選手、石井宏樹選手、松本哉朗選手)だ。名門と呼ばれるジムのトレーニングについても伺ってみた。
−普段のトレーニングで教えている中で、会長が一番重要だと言っていることはなんですか
会長:やっぱ基本ですよね。ワンツーとローキックと、あと距離ですね。距離。身長の小さい選手の場合、相手が大きかったら、距離考えないと蹴りもパンチも当たらないから、距離も大事なんです。あと「攻撃は最大の防御」っていうのは、私はあんまり好きじゃないんですよ。やはり防御をキチンとやってから。「攻撃は最大の防御」って言ってる選手は寿命が短いんすよね。
−なるほど
会長:あとはもう一番大事なのは、我慢比べなんすよ我慢比べ。試合中はあっちも苦しいけどこっちも苦しいんだから。私セコンドやってたときいつも言ってたんですよ。「おまえも苦しいだろうけど、相手ももっと苦しいんだから」っていう風にアドバイスしてたんすよ。最近はセコンドやらないんですけど、もっと苦しいんだから相手もね。
−練習中のアドバイスで、気をつけて教えていることはなんでしょうか
会長:やっぱガードとか、距離とか。でもガードが一番重要でしょう。相手が攻撃してきたときがチャンスですからね。左がきたら左を合わせるとか、右がきたら同じ右をあわせるとか、あわせる技は大事なんですよ。こう、お互いこうやってるときは(アクションつき)、何もできないじゃないですか。相手が攻撃態勢のときがチャンスじゃないですか。
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やはりトレーニングの話になると、とたんに会長の目は鋭くなった。 | 自身の現役時代を振り返りながら、その教訓を身振り手振りで実演してみせてくれた。 |
■タイでタイトルの取れる選手を
インタビューを行っている間、背後では定期的にゴングが鳴り響き、選手や練習生がトレーニングしていた。質問に答えながらも話の途中で練習生が通りかかると、ひとりひとりに声をかけていたのが印象的であった。また、各方面で今でも活躍するOBの話になると、まるでわが子のことを語るように目を細め、語る言葉も誇らしげだ。キックボクシングを愛し、仲間を愛し、選手を愛する人柄が多くのチャンピオンを生み出す理由の1つに違いない。
日本で最初にできたキックボクシングジムである「目黒ジム」から今年でちょうど40年。そんな節目の年に今後の抱負を伺った。
−これからの目標や期待したいことはなんでしょうか。
会長:やっぱり世界で活躍できる選手かな。タイのチャンピオンを作りたいですよね。後はやはりテレビ放映。まぁテーピングで月に1回でもいいから!
1970年代、キックボクシングはテレビ放送全盛時代。実は国内初のテレビ中継(1967年2月26日のTBS「サンデースポーツ」)で、モンコントン戦で死闘を見せつけた沢村忠氏とともに、セミファイナルで木下尊義選手と激闘を繰り広げ、日本国民にキックボクシングの衝撃を見せ付けたのが藤本会長なのである。当時を知る会長が、タイのムエタイに勝ついい選手を育て、「キックの時代」を復活させたいと思うのは当然のことであろう。そんな気持ちもあってか、「OB会もやりたいね」と語った藤本会長。もし実現したら、その顔ぶれはそうそうたるものになるに違いない。
キックボクシングを始めようと考えている人も、キックボクシングを再び盛り上げたいOBのみなさんも、みんな藤本ジムに集合! 思わずこちらがそう叫びたい気持ちになったのであった。
各方面から送られた引越し祝いの花と一緒の藤本会長
テキスト:鈴木麻里子
写真:鈴木麻里子